MireyHIROKI/ミレイヒロキ
ミレイとヒロキの2人の人間でありながら1人の芸術家、ミレイヒロキとして活動。クレヨンを画材とした独自のタッチにより高い評価を得る。LOVE&PEACEプロジェクトを立ち上げ「環境・心」などをテーマに作品を制作。ミッキーマウス生誕75周年のための絵画制作、イサムノグチ「AKARI」とのコラボレーションなど。2007年からは表参道ヒルズ、渋谷交差点、京都鴨川、赤坂サカス、大阪梅田、東京タワーなど日本各地をキャンバスに大規模な作品「100UMBRELLAS」を発表。2010年ニューヨーク・セントラルパークで行われたJAPAN DAY 2010公式アーティスト。
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藁半紙にクレヨンで花を描かせるために、
芸術の女神が「必然的な貧乏」を仕組んだんです。
クレヨンで花を描いたとき、芸術家が天職だと感じたのですか?
「『文房具としてのクレヨン』によって、
ミレイヒロキは世界に認められるアートを
獲得できたのだと思います。」

©MireyHIROKI
世界を舞台に活躍するミレイヒロキさん。
アメリカで出会った2人が1人の芸術家になることで、
世界中の人の心に一輪の花が咲き始めました。
「必然的な貧乏」をくぐり抜け、
クレヨンを通じて
日本人としてのアイデンティティを発見した
現代アーティストに迫ります。
| 編集部 |
ミレイヒロキさんは、
「2人で1人」の現代アーティストとして活動されています。
女性のミレイさんと男性のヒロキさんが
「花」を重要なモチーフとして
一つの作品を創り上げていらっしゃいます。
まず、どうして「花」なんでしょう?
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ミレイ
ヒロキ
(以下MH) |
もともとふたりはアメリカのロサンゼルスで
ばらばらに作品を創っていました。
やがて同じアトリエで創作活動を始めましたが、
はじめのうちはそれぞれがそれぞれに
自分の作品を創っていました。
また、アメリカを生活の拠点にしながら、
MTVのメークアップやスタイリストのアシスタントをしたり、
大学の映像科の人たちといっしょに撮影をしたりと、
さまざまな活動をしていました。
そうした作品制作との関わりを通じて、
「自分のやりたいことを白い紙に描くこと」
がすべてのベースであることに気づいたのです。
彫刻家、映画監督、脚本家は、
まずイメージを絵に描いたり、コマ割りをすることから始めます。
私たちはクリエーションの仕事について、
専門的な勉強をしたことはありません。
学校ではなく、すべて現場で学んでいったんですね。
その中で、絵の上手下手ではなく、
「自分が伝えたいことを白い紙に落としていくこと」
が最初のスタートとなったのです。
そこから油絵やミックスメディアなど、
多様な表現方法にチャレンジしていきました。
ただ、アーティストとして生活をしていると、
必然的にど貧乏になっていきます。
やがて思うように画材が買えなくなりました。
そのときアートストアでいちばん安く買えるのが、
24×36インチサイズの藁半紙だったんですね。
藁半紙が50枚、100枚単位で売っていて、
とにかくそれがいちばん安かったわけです。
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| 編集部 |
藁半紙ってちょっと懐かしいですね。
小学校のテストを思い出します。
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| MH |
それで巨大な藁半紙を買ってきて、
日本から持ってきていた16色のクレヨンを使って
ふたりで絵を描き始めたんです。
それがミレイとヒロキのはじめてのコラボレーションでした。
そしてそのとき、
ごく自然に出てきたのが「花」だったんです。
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ヒロキ氏
| 編集部 |
直感的にふたりが花の絵を描き始めたんですね。
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| MH |
私たちはポップなものを創っていますが、
実はとても絵画のアーティストなんです。
もともと絵画で世界デビューして、
絵画が評価されることでこれまで芸術家としてやってきました。
はじめてふたりで描いたのもクレヨンによる花の絵画でした。
完成した一作目を自分たちで観て、
「これはちょっとすごいね」ということになりました。
そこから1ヵ月ほどかけて、
何十枚もの花の連作を一気に描き上げたんです。
そのときですね、
「プロのアーティストとしてやっていこう」と決めたのは。
なんの根拠もありませんでしたが、
一生アーティストとしてやっていこうと思ったんです。
それから私たちの場合、
すべて独学でやってきたことがプラスになりました。
アメリカには週一回、美術館が無料の日があって、
私たちはものすごいコレクションをがんがん観てまわりました。
でも専門的な知識は持っていなかったので、
どのアーティストの作品も、
自分たちとは違う手の届かないものとして
観ることはけっしてなかったんです。
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| 編集部 |
天才と自分を比較することなく、
ある意味、素直に観ることができたのですね。
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| MH |
天才と自分を比較していたら、
芸術に入っていくための勇気がなくなっていたかもしれません。
美術館に通って最初に絵画の見方がわかったのは、
ジョアン・ミロの作品でした。
真っ白なキャンバスに、
ミロが配置した一本の線がひゅうっと見えるような感じでした。
その線は絶対的なものなんですね。
どこにもずらすことができない。
それが直感的にわかったんです。
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| 編集部 |
パーフェクトな配置。
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| MH |
そう、パーフェクト。
「これがアートの見方なんだ」ということが直感的にわかって、
それはものすごくいい体験でした。
そうは言ってもそこから10年、20年、
相当にきつい思いをしました。
1993年、20代半ばのときにフランスで賞をもらってデビューして、
そこからプロになったのですが、
受賞とプロデビューはまったく別の問題ですから。
あのころは人とコミュニケーションすることなく、
ふたりだけの世界で創作活動をしていました。
アトリエで徹底的に作品制作する期間が10年ほどありました。
ほかの誰ともほとんど会話をしない、長い時間。
20代はアートといっしょに引きこもっていたという感じです。
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ミレイさん
| 編集部 |
話をもどしますが、
ミレイヒロキとして花を描いたことで
芸術家が「天職」だと感じたわけですよね。
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| MH |
たぶん、そういうことでしょうね。
作家というものはモチーフの発見に延々と時間を費やすものです。
ところが私たちは「花」というモチーフを早い時期に発見できた。
自分たちのストーリーを思い返してみると、
「必然的な貧乏」だったのだと思います。
芸術の女神が私たちにアイデンティティを発見させるために、
あらかじめ貧乏を仕組んだんですよ。
藁半紙にクレヨンで花を描かせるために、
必然的に貧乏が用意されていたんです。
ところで「なぜ、クレヨンだったのか?」ということが
私たちにとっていちばん大きな疑問でした。
その疑問をつきつめると、
「自分の足もとを見つめろ」というところまで
思考が行き着くんですね。
日本人として芸術で世界に勝負をかけるのであれば、
根本的なアイデンティティを見つけなければなりません。
そこで、日本から持ってきた「クレヨン」にぶつかるわけです。
クレヨンを選んで絵を描いて賞をもらうことになった。
油絵やアクリルでは世界に通用しなかったかもしれない。
やっぱりクレヨンなんだ、と。
そこからクレヨンについて、自分なりに調べ始めました。
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| 編集部 |
クレヨンを思索する旅が始まったわけですね。
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| MH |
クレヨンはもともと大正初期に、
フランスからアメリカ経由で日本に入ってきました。
当時、長野に山本鼎(やまもと かなえ)氏という
自由画教育運動や農民美術運動を始めた
版画家がいました。
彼がキーパーソンとなって、
クレヨンが自由画に使われるようになり、
やがて学校教育へと結びついていきます。
教育と結びつくことで、
日本人がはじめて手にする画材はクレヨンになったのです。
調べてみると私たちより上の世代の芸術家、建築家、作家は、
こぞってクレヨンに関するエッセイを書き残していました。
私も自分なりにクレヨンについての論文を書いてみました。
タイトルは「世界では画材、日本では文房具」です。
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| 編集部 |
ああ、確かにそうですね。
私たち日本人にとって、
クレヨンは画材というよりも文房具。
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| MH |
「文房具というカルチャー」がとても重要なんです。
子どものころ唯一、親からすんなりとお金がもらえて、
自由に選ぶことができたもの、それは文房具だったでしょう?
その感性が日本人独自の美的センスをつくりあげ、
世界に通用する芸術家や建築家を生み出していった。
それが論文の主題です。
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| 編集部 |
それはとても面白い視点ですね。
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| MH |
文房具というカルチャーが、日本人のデザインセンスを生んだ。
もしも当時、クレヨンが百貨店だけで買える画材だったとしたら、
手に入れられる人の数は限られていたでしょう。
結果、独創性を獲得できる人の数は
もっと少なくなっていたはずです。
つまり、子どものころ町の文房具屋さんで
気軽にクレヨンを買うことができなかったとしたら、
世界に太刀打ちできるアーティストは
日本から出てこなかったかもしれません。
ものごとがフラットになっている今の世界において、
「文房具としてのクレヨン」にたどり着いたからこそ、
ミレイヒロキは世界に認められるアートを
獲得できたのだと思います。
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| 編集部 |
2011年12月27日〜2012年2月7日まで、
東京・青山FIAT CAFFÉで開催されるフラワーイベント
「Share Flowers(シェア フラワーズ) 花でつながる、花で広がる」
に、ミレイヒロキさんは参加されます。
FLOWERアート&デザイン協会(FADA)と、
イタリアを代表するカーブランド「FIAT(フィアット)」の
コラボレーションによって生み出される新空間プロジェクトです。
そこではFADA会長を務めるフラワーアーティスト、
MASSA NAKAGAWAさんと、
花の作品を創りつづける現代アーティスト、
ミレイヒロキさんのコラボレーションが実現します。
参加はどのように決まったのですか?
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| MH |
東日本大震災後の2011年4月、表参道ヒルズで開催された
FADA協賛の「ROOTOTEチャリティーイベント」に
参加させていただき、MASSAさんといろいろな話をしました。
「花を咲かせる」という共通認識のもと、
「いつか正式なコラボレーションをやりたい」
という思いをお互いに持ちました。
その思いがとてもいい形で実現することになったのです。
2011年から2012年にかけて、花によって未来へ気持ちをつなぐ
「シェア フラワーズ」というテーマのもと、
FADAとコラボレーションできたことはとても光栄に思います。
FADAのみなさんが取り組んでいる
花を活ける、フラワーアレンジメントを創ることは、
とても素晴らしい芸術的な行為だと思います。
今回のイベントを通じてみなさんといっしょに、
日本中に花を広げていけたらうれしいですね。
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ミレイヒロキさん、フラワーアーティストMASSA NAKAGAWA氏とのコラボレーションプロジェクトの作品を製作中。
| 編集部 |
生の花と絵画の花のコラボレーションによって、
新しいエネルギーが生まれるのではないでしょうか。
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| MH |
MASSAさんは生命のあるものによって表現します。
私たちは描くことによって、
生きていないものに永遠の生命を与えます。
瞬間的な芸術、永遠を生む芸術の融合は、
「未来に向けて、とても価値のあるものだ」
という気持ちを私たちは持っています。
ミレイヒロキは世界共通の「LOVE&PEACE」の
メッセージとともに、
2004年から「世界中の人の心に一輪の花を。」
というタイトルで活動してきました。
私たちのタイトルをストレートな言葉に置き換えるとすれば
まさしく「シェア フラワーズ」という言葉がぴったりです。
フラットな感覚で、気軽に観に来てもらいたいですね。
花を共有して、みんなに楽しんでもらいたいと思います。
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「世界中の人の心に一輪の花を。」
ミレイヒロキさんが発信しつづけてきたメッセージは、
今を生きる私たちの気持ちに、すっとしみこんでくるようです。
後編は「芸術とビジネス」について。お楽しみに!
つづく
●お知らせ
ミレイヒロキさん、フラワーアーティストMASSA NAKAGAWA氏のコラボレーション企画が楽しめるフラワーイベント、Share Flowersは現在開催中です!
