「ピアノを弾く」「ピアノで遊ぶ」
ある日本語学習者がこう言いました。
「ピアノを遊びます」
うーん、これはどういうこと?どんな意味?
①「ピアノを弾く」ということ?
②「ピアノで遊ぶ」ということ?
うーん、ほかにも解釈があるかもしれませんね。
でも、とりあえず、この2つについて、その原因を探ってみましょうか。
文:志賀玲子 講師
夫の赴任地からの帰国をきっかけに専業主婦から日本語教師に。
都内日本語学校にて数年間勤務後、大学院へ進学。大学院修了後、日本語教師養成講座講師、大学非常勤講
師に。
現在、大学にて留学生教育の他、日本の学生への初年次教育及び日本語教授法等の科目を担当。
助詞の習得に苦労している学習者はとても多い
① 「ピアノを弾く」ということ?
まず①について考えてみましょう。
「弾く」ではなく「遊ぶ」という言葉を使うこの現象を、皆さんはどうとらえますか。
どうしてこのような表現が出てくるのだと思いますか?
考えられるひとつの理由としては、母語(または日本語以外の外国語)と「辞書」の影響があげられます。
例えば英語で「(ピアノを)弾く」という場合、動詞として“play”を使いますよね。
そのため、英語話者や英語に精通している学習者は、“play”を思い浮かべ、それにあたる日本語をさがします。
そこで“play”を辞書でひいてみると・・・「遊ぶ」が出てくるわけです。
そう・・・「ピアノを遊ぶ」という表現が出てくるカラクリがここにありそうです。
不自然な言葉の使い方、その原因を探っていくと・・・
既に自分の中にある言語や法則を利用することから起きている、ということに、しばしば行きつきます。
母語話者にとっては、それまで気にしていなかった言葉の使い方や習慣、当然だと思っていた事柄に、改めての気づくことになるかもしれません。
② 「ピアノで遊ぶ」ということ?
②についてはどうでしょうか。
実は母語話者の多くはあまり気にしていないのですが、「助詞」の存在は、学習者にとってとてもやっかいなものなんです。
日本語学習者に
「日本語学習の中で特に困難に感じたものは何ですか?」
と質問をすると、
「助詞」
という返答が上位のほうにあがってきます。
そう、助詞の習得に苦労している学習者はとても多いんです。
平仮名ひとつで意味が異なる助詞
ところで、皆さんは助詞をどのように身につけましたか。
習得に難しさを感じたことはありますか。
助詞について、特に日常会話で使う助詞について、習得が困難だったという母語話者はほとんどいないのではないでしょうか。
一方、英語を勉強したときの前置詞についてはどうでしょうか。
to, on, in, at, into,toward・・・使い分けは簡単でしたか?そして、自然に使えるようになりましたか?
苦手だった・・・そういう方が多いのでは?
多くの日本語母語話者は英語の前置詞に悩まされたのではないでしょうか。
ごくごく簡略化して言ってしまうと、日本語学習者にとっての助詞は、日本語母語話者にとっての英語の前置詞と同じようなものなのです。
そのため、たびたび間違った使い方をしてしまいますし、逆に、自然に使える人に対しては「日本語が上手だ」という判断をするんですね。
助詞の使い方について書き始めると長くなってしまうので、今回はここでとどめておきますが、助詞を「を」にするか「で」にするかによってどうなるか・・・・
ピアノを弾く。
ピアノで弾く。
微妙にちがいますよね!
平仮名ひとつで意味が異なってくるんですよね。
さらに、日本語非母語話者にとってはその違いの認識が難しいということもおさえておいてください。
そうすると、日本語非母語話者が使う日本語を、寛容に受けとめることができるようになるはずです。
無意識に使っている日本語
では、最初の話に戻りましょう。
楽器を演奏する際の動詞に何を使うかということを考えてみます。
たとえば日本語では、
・ピアノを弾く バイオリンを弾く ギターを弾く
・フルートを吹く リコーダーを吹く トランペットを吹く
・ドラムをたたく 太鼓をたたく
となりますね。
つまり、動作に焦点をあてた表現となっていることがわかります。そして、それは習慣的にセットになっていることがポイントです。
英語の場合は、1段目「ピアノを弾く」~2段目「トランペットを吹く」までは、”play”を使えばよさそうです。
そして3段目の「ドラムをたたく」「太鼓をたたく」は“hit”を使うようです。
この例から、言語によって、言葉の使い方やその区分が違うということがわかりますよね。
同じように対応しているわけではないということです。
さて、「宿題をする」というフレーズも、典型的な「セット」と言えるかもしれません。
母語でも、日本語と同じように「する」に当たる言葉を使っているのであれば問題ないのですが、そうでない場合は、母語で使っている言葉に対応する日本語を使ってしまいそうです。
実は、「宿題を書く」というフレーズをよく目にします・・・。
おそらく母語では「書く」に相当する言葉を使っているのでしょうね。
さて、学習者が不思議に思う動詞は他にもあります。
例えば、身につけるものです。
帽子をかぶる
ヘルメットをかぶる
ジャケットを着る
ワンピースを着る
スカートをはく
靴下をはく
ブーツをはく
「かぶる」「着る」「はく」
どのように使い分けをしていますか。
多くの母語話者は体感的に理解し、自然に使い分けをしています。区別しているという意識さえ、そこにはありません。
ですから、改めて「使い分けは?」と尋ねられると即答できない方が多いんですよね。
でも、じっくり考えてみると定義が見えてきます。
以前、ほぼネイティブ並みに日本語を話す外国の方が、スカーフで頭を覆う動作をしながら
「スカーフをはいて・・・」
とおっしゃいました。
一瞬驚きましたが、おそらく、その方の母語では「履く」に相当する動詞をつかっているのだろうと理解しました。
或いは、「スカートをはく」というフレーズがしっかり身についていて、音声が似ているため間違えてしまったのかもしれません・・・。
また、便利な言葉として「する」というものもあります。
時計をする
ネックレスをする
指輪をする
ネクタイをする
ベルトをする
どうですか?
とても便利でしょう?
私たちが意識せずに使ってる表現には、このようなものがたくさんあります。
母語話者はほとんど無意識に使っているのであまり気に留めないのですが、学習者が違う表現を使用すると違和感を覚えます。まさにそういうところから、日本語への気づきが生まれるのです。
寛容に受けとめる姿勢
教室で日本語を教えるとき、学習者に対して「正しい組み合わせ」を伝えるのも、日本語教師の仕事です。特に、日本語を使ってアカデミックな場で活躍したり、日本語を使って仕事したりする人は、いわゆる「正しい組み合わせ」が使えたほうが有利であることにちがいありません。
是非是非、伝えてください。
ただもうひとつ別の視点から見ると、日本が多文化共生社会を目指している以上、受け入れ側の姿勢として「寛容になる」ということも大切だと考えられます。
外国の方が間違った組み合わせのことばを使った場合に、「間違っている」などと批判的に判断するのではなく、「寛容に受けとめる」姿勢です。
間違いに寛容になろう!ということですね。
外国語を学習したときのことを思い出してみてください。
ひとつの言語体系が自分の中にできあがっていると、それが新しい言語習得にさまざまな影響を与えます。助けになる場合もありますし、邪魔になる場合もあります。
母語の影響は大きいんですよね。
また、「助詞」というものが多くの非母語話者にとって厄介なものであるということも、是非心にとめておいてください。
そもそも「助詞」というものがない言語もあり、その場合、概念自体の理解が難しくなってしまうんですよね。
そして、日本語母語話者も日常的な場面では助詞の省略をしていることが多いので、その様子を見て(聞いて)、「助詞は重要ではないんだ」との考えをもたせてしまうこともあります。
自然習得したときには気づかなかった日本語の特徴を、日々の観察から見つけてみてください。
面白い発見がありますよ!