「日本人ってだれのこと?」
ときどき学生にこんな問いを投げかけてみます。
日本語教育関係の授業でのワンシーン・・・
日本語母語話者が多くいる授業です。
今回は日本人の定義について考えてみましょう。
文:志賀玲子 講師
夫の赴任地からの帰国をきっかけに専業主婦から日本語教師に。
都内日本語学校にて数年間勤務後、大学院へ進学。大学院修了後、日本語教師養成講座講師、大学講師に。
現在、大学にて留学生教育の他、日本の学生への初年次教育及び日本語教授法等の科目を担当。
「日本人とは?」
「自分のことばで定義してみて!」
「定義」という言葉になれない学生も多いのですが、レポートなり論文なりを書くアカデミックな場にいるわけですから、慣れておくに越したことはありません。
自分の言葉で定義する――これって、自分の意識をはっきりさせるためにとても有効なんですよね。ほわーんとしている「なんとなく・・・」という段階でしかない感覚を、言葉を使うことではっきりしたものにさせる・・・
責任感も出てくるので、日常は、あえて避けている人が多いかもしれません・・・。
皆さんもご自分なりの定義をしてみてください。
「日本人とは?」
「自分で考えて!」
さて、このような問いを投げかける際に最も注意を払っていること・・・
それは、「答えは一つではない」ということを、学生たちに強く、強く、訴えることです。
日本の学生にありがちなのは「正解」を求める姿勢です。
でも、世の中そんな単純には割り切れないことが多々あります。
「正解」のない状態の中で、自分なりの答えを探っていく・・・・。
自分なりの答えを導くために、まずは考えるところから始めてみよう・・・というのが問いかけの意図でもあるのです。ですから、文字どおり、自分なりに考えるというところから始めます。
そういうとき、スマホを使って調べるのは、やめるように言います。
最近の学生は、すぐにスマホを使って調べようとするんですよね。
だから言います。「自分で考えて!」
もちろん、情報が目まぐるしくかけまわる昨今、素早く情報を手に入れて必要な事柄をピックアップする力も大切・・・それはもちろんとっても大切です。
でも、そればかりではなく、自分自身に問いかけ、自分自身と向き合い、自分自身を見つめなおすことも、それ以上に大切だと思いませんか。
そうでないと、人から与えられた情報を、まるで自分で考えたかのように勘違いしてしまう人があふれる・・・・そして、同じような考えの人がなんとなく集まる・・・そして、なんとなく理解したような気になってしまう・・・
これもちょっと恐ろしい現象ですよね。
「答えは一つではない」
だから私は、若い人たちに、自分自身で考えてほしいと思うのです。
・・・で、あえてそういう時間を作る。
「答えは一つではない」ということをしっかり伝えると、学生たちは安心して自分の意見を書き始めるのですね・・・おもしろいですね。
「正解」というものから解き放たれると、人って自由になれるんだ、ということがよ~くわかります。
じっくり考え、自分なりの答えが書けたところで・・・・
「では、グループでシェアしてみましょう!」
この時もあらかじめ、
「いろいろな視点からの意見があるはず・・・人それぞれのとらえ方についても味わおう」
などと声掛けします。
途中で、「いろいろな見方あるよね~。どこに注目するか、どこに焦点を当てて考えるかが人によって違うのって、すごくおもしろいね」
などと言います。
それから全体に向けてどんな意見が出たかを発表してもらうのですが・・・・
ここまでで「いろいろな視点からの意見がありうる」「さまざまな見方がある」ということを強調しているので、学生たちは臆せず、自分の意見を述べます。
こういうとき、自由に意見が言えて、それを否定されないという安心感というのは、とっても大切です。
「ステレオタイプ」
さて、質問は、「日本人とは?」というものです。
① 真面目、時間を守る、穏やか、拾ったものを届ける、和を重んじる、空気をよむ・・・
②日本国籍を持つ人
②‘ 日本で生まれ育った人、日本語を話す人、親が日本人・・・
視点としては大きく二つに分かれます。
(もちろん、もっともっといろいろな視点があるのはもちろんです!)
まず、①のように、いわゆる性質や性格をあらわすものが出てきます。
これって、まさに「ステレオタイプ」ですよね。しかもこれを、日本人と称する人たち自らが言及しているのがおもしろい!
ここで私から質問します。
「皆さんの周りの人は、いつも時間を守る人ばかりですか?」
「・・・・・・」
「・・・そういう人ばかりじゃない」
「今日、遅刻しました・・・」
これにはみんな大爆笑です!
すごく不思議なのですが、全員が当てはまるわけではないのに、「ステレオタイプ」というものが強く存在するんですよね。しかも、自分たちに対してです。これは非常におもしろい!
逆に言うと、自らを、誰が決めたかもわからないような枠の中におさめて考えているということですよね。
掛け声としてよく使われている、
「枠から飛び出そう」
とか
「常識を打ち破ろう」
というのは、自分自身をおさえてしまっている見えない天井や枠を取り払うことなのではないでしょうか。
「日本人の定義」
では、②はどうでしょうか。②は、定義としては非常に明確ですよね。
②の「日本国籍を持つ人」に加え、②‘の「日本で生まれ育った人、日本語を話す人」
・・・例えばこの3つ(日本国籍を持つ人、日本で生まれ育った人、日本語を話す人)にすべて当てはまる人・・・、
こうした人びとが、実は日本では多数派なんですよね。
ここに、「日本人的風貌」を加えることもできます。
こういう人たちが多数派のためか、「日本人」というイメージも、こうした人たちに寄せて考えているようです。
しかし・・・
「日本人的風貌」ではない「日本国籍」を持つ人もいますよね。
日本で生まれ育った日本国籍ではない人もいますよね。
日本語が得意ではない日本国籍保持者もいますよね。
国籍や通常使う言葉や見た目・風貌などは必ずしも一致しないのですが、日本にいるとそのあたりの感覚が少々鈍くなってしまうようです。
すべての条件に当てはまるのが日本人で、それが何となく「当たり前」だという感覚です。
以前、在日韓国人の方から聞いたセリフが忘れられません。
「『日本人に生まれてよかった』という言葉が大嫌い!!」
確かに、グルメ番組や旅行番組などを見ていると、旬の和食を食べたり季節のうつろいが伝わってくる眺望素晴らしい場所を訪れたりしては、「日本人に生まれてよかった!」とか「日本人に生まれて幸せ!」というようなことを言う人が多いことに気づきます。
その在日韓国人の方曰く、このような言葉を聞くたびに強い疎外感を抱くということです。
その方からこの話を聞いてからというもの、私もこの言葉がとても気になるようになりました。
場合によっては、「日本人は・・・・」と言うだけで、その言葉は、とても排他的な表現にとなります。気づかないうちに他人と自分の間に線を引いたり、相手を遠ざけたりしてしまうメッセージを伝えてしまうことがあります。
日本語教師は日常的に様々な背景の人たちと接しています。
そのとき、知らず知らずのうちに、意図せずして相手との間にラインをひいてはいませんか。
自分は大丈夫だと思わずに、ときには自分の言動を振り返ることをしてみてください。
多文化共生社会の実現を目指す以上、そのあたりの意識を高め、使う言葉にも敏感になるべきなのだと、常々感じます。
そういう時代に私たちは生きているということを強く思わされる今日このごろです。