文:志賀玲子 講師
夫の赴任地からの帰国をきっかけに専業主婦から日本語教師に。
都内日本語学校にて数年間勤務後、大学院へ進学。大学院修了後、日本語教師養成講座講師、大学講師に。
現在、大学にて留学生教育の他、日本の学生への初年次教育及び日本語教授法等の科目を担当。
古文は難しくない?
「私、古文って特に難しいって思わなかったんですよ。
私にとって日本語も英語も古文も同じ・・・・外国語だから」
日系南米人の大学生に進学についてインタビューをしていたときの言葉です。高校時代の学習について語ってくれた際、Mさんは上のように明るく語ってくれました。
その地域には、Mさんと同じ国から来た人たちが集まって住んでいて、小中学校では一大勢力となっていました。日本の子どもたちよりも、その国の子どもたちのほうが多いという状況になっていて、学校の中でもその子たちの母語が飛び交っていたのです。
外国籍の子どもたちが孤独を感じることの少ない環境ではありますが、そこで問題になっていたのは、高校進学がなかなかできない、或いは、せっかく進学しても中退者が多いということでした。Mさんは、その中でも頑張って進学し、大学入学を果たした学生だったのです。
インタビューの中で印象的だったことのひとつが、「古文」については特に難しいとは思わなかったと言う冒頭の言葉でした。Mさんにとっては日本語も英語も外国語で、古文もそれと同じだと言うのです。現代日本語とは違うひとつの言語として捉え外国語の1種類として考え勉強していたため、「古文」が特に難しいとは思わなかったと。日本の人たちは、古文を自分たちの言葉だと捉えている、つまり現代文の延長にあるものとしてアプローチするから難しく感じるのではないか、と話してくれました。
う~ん、なるほど~。そういう考え方もあるんだ~。古文は現代文とは別の言葉としてとらえるのか~と私は視点の違いに驚いたことを覚えています。
Mさんが指摘するように、現代文と古文は別の言語としてとらえたほうが、むしろ難しさを許容できるのかもしれませんね。それほど、現代文と古文は言葉や文法など異なっている部分が多く、だからこそ学校の授業で悩まされたという人が大勢いるのでしょう。
なぜ言葉が違うのでしょうか。人々が命を次の世代につなぎ、途絶えることなく存在してきたように、言葉もずっと人々の間で使われることによって存在し続けてきました。ある日突然、使っている言葉がガラッと変わるわけではないのです。もちろん時代によって、変化のスピードが速くなったり遅くなったりするということはありました。しかし長い目で見た場合、グラデーションのように少しずつ少しずつ変化していき、その結果、何百年もたってから振り返ってみると、大きな違いが生じていた、ということなのです。
古文が現代人の私たちにたやすく理解できるものではないということから明らかなように、言葉というものは変化しています。そして今もなお、変化し続けているのです。
〈ら抜き言葉〉の会話
さて、ここで、次の会話を読んでください。
A:あっ来た来た。やっと来た。時間通りに来れるか心配していたんだよ~
B:間に合ってよかった。朝起きてシャツを着ようとしたらしわくちゃ・・・。さすがに今日はプレゼンの日だから、そのシャツ着れなくて・・・着替えに手間取った。
皆さん、いかがですか?
何か不自然に感じる箇所、気になるところがありますか。
気にならない方もいるかもしれません。
文字を読んで気になった人の中にも、音声で聞いていたら気にならなかった人がいるかもしれません。
上の会話には、いわゆる〈ら抜き言葉〉が入っているのです。
「来れる」「着れなくて」がそれです。
規範的には「来られる」「着られなくて」となります。
本来あるべき「ら」が抜けているから〈ら抜き言葉〉です。
〈ら抜き言葉〉は合理的?
ここで、この〈ら抜き言葉〉について考えてみましょう。
明日の朝、6時にここへ来られますか?
この文だと、二通りの意味にとられる可能性があります。
つまり、いらっしゃいますか、という尊敬の意味。
そして、来ることができますか、という可能の意味。
でも、仮に下のような文はどうでしょうか。
明日の朝、6時にここへ来れますか?
これは可能の意味でしかとらえられませんよね。
つまり、〈ら抜き言葉〉を使うことによって、意味が明確になり、言葉の使い方として合理的になっているとも言えるんですよね。
さて、国語の問題で、「られる」のところに線が引いてあって、「この使い方の意味はなんでしょうか」と問われるものがありませんでしたか。
その際私たちがしたことは、前後の文脈から考え、可能・自発・尊敬・受身のどれに当てはまるか考えることでした。つまり、カタチだけでは意味の区別はつかず、あくまで文脈から判断していたということになります。
「られる」というかたちは、複数の意味用法があるため、紛らわしいこともあるのですね。
そういう視点で考えると「来れる」「見れる」「食べれる」という〈ら抜き言葉〉はある意味合理的で、進化しているとも言えるわけです。
〈ら抜き言葉〉が生じるのは、上一段活用(例:見れる)、下一段活用(例・食べれる)、か行変格活用(来れる)です。規範的に正しいとされているかたちは、「見られる」「食べられる」「来られる」となります。
五段活用では?
翻って五段活用はどうでしょうか。
「読む」という動詞に対応して「読める」という可能動詞があります。可能は他の使い方とは明確に区別されているのですよね。
そうすると、五段活用以外の動詞にも〈ら抜き言葉〉という可能の形があったほうが便利だともいえます。〈ら抜き言葉〉は、きわめて自然な変化かもしれません。
但し、日本語を使ってコミュニケーションをスムーズに行うために、私たちは一定のルールのもとに言語活動をしています。新聞、雑誌、報告書などで情報を正確にやりとりするには、共通認識が必要です。そのために規範的な文法が定められているとも言えるわけなのです。
言葉が変化し続けているという道理は、使用している言葉が規範文法とは相いれなくなる可能性があるということです。最近その筆頭に挙げられるのが〈ら抜き言葉〉というわけです。
「国語に関する世論調査」
文化庁が毎年「国語に関する世論調査」という調査をしています。令和2年度の調査では、次のことが報告されています。
① 朝5時に 来られますか/来れますか
② 今年は初日の出が 見られた/見れた
どちらを使うかという質問に対して、①と②は〈ら抜き言葉〉(来れますか、見れた)を使っている人が過半数でした。①は52.2%、②は52.5%です。若者ほど使う率が高くなっていて、特に「見れた」を使う人は16~19歳では83.3%となっています。
③こんなにたくさんは 食べられない/食べれない
④早く 出られる?/出れる?
③④については、全体では規範的だとされている使い方(食べられない、出られる)が過半数ではあるのですが、10代、20代の若者だけを見ると〈ら抜き言葉〉のほうが多くなっています。
文字に書かれた〈ら抜き言葉〉
さて、場面が変わって大学の授業での話です。
「夕べSNSを見始めたら寝れなくなっちゃって、結局寝たのは2時過ぎ・・・朝、いつもの時間に起きれなくて、電車が一本遅れた。一本あとの電車はすごく混んでいて、駅についても降りれなかったらどうしようって思っちゃった。当然朝ごはんも食べれなかったからおなかペコペコ。お昼休みになったら一緒に外に出れる?おいしいもの食べよう!」
先日、日本の大学生たちに、上の話をまず声に出して聞かせました。
「なにか変だと思うところありますか?」
「???」
音声で聞いたとき、ほとんどの学生は違和感をもたないようです。
次に、文字にして見せました。
すると、ちらほらと「ああ」という学生が出始め、その様子に刺激を受けた学生が間違い探しを始め・・・・
音声では気にならなくても、文字に書かれた場合は気になる人が多いという現象につながりそうです。
「では、違和感を覚えるところにしるしをつけてください。いくつになりましたか。」
うーん、ひとつも見つけられない学生もいる模様・・・
それだけ〈ら抜き言葉〉が浸透しているということですね・・・。
〈ら抜き言葉〉の浸透
〈ら抜き言葉〉が浸透していく流れは変わりそうにありません。
私が学生に伝えていることは次のようなことです。
「〈ら抜き言葉〉が広がる現象は自然な流れ。皆さんが友達との会話のとき使うことに全く問題はありません。ただ、文字に書かれたときには違和感をもつ人が多くなるようなので、特に正式な文章を書くときには注意したほうがよいかもしれませんね。
こんなふうに言葉は変化しているのだということを、是非知っておいてください。
その上で、場面に応じて、〈ら抜き言葉〉を使うか使わないかは、皆さん自身が決めましょう。」
最後に、先ほどの授業で学生に出した問題についてお伝えしておきます。〈ら抜き言葉〉は全部で5カ所あります。
【参考】
文化庁(2021)『令和2年度「国語に関する世論調査」の結果の概要』