目次
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  1. 1. 外国人の日本語を「公正に評価する」とは?
  2. 1. 日本語教師としての気付き
  3. 2. 「流暢さ」にとらわれない意識
  4. 3. コミュニケーションには、違う視点も必要
  5. 2. 「外国人の使う日本語」に慣れよう
  6. 3. 「バラエティーのある日本語」を受けいれる
  7. 4. 最後に

私が日本語教育の世界に入ってすでに20年近くが経とうとしています。

もともと留学生に日本語を教えることからスタートしたのですが、徐々に対象者が広がり、日本の大学生への授業や、社会人への日本語教師養成講座の科目を担当するようになりました。最近では日本の学生との接点が増えつつある状況にいます。日本の学生と留学生がともに学ぶ共生クラスも担当しています。

そうした経験の中で、私自身もいろいろなことを学び、学習者から刺激を受け、それまでは気づかなかったようなことに対する問題意識も芽生えました。今回は、留学生と日本の学生の両者と接する中で、私自身が「獲得した力」についてお話ししたいと思います。


文:志賀玲子 講師

夫の赴任地からの帰国をきっかけに専業主婦から日本語教師に。都内日本語学校にて数年間勤務後、大学院へ進学。大学院修了後、日本語教師養成講座講師、大学非常勤講師に。
現在、大学にて留学生教育の他、日本の学生への初年次教育及び日本語教授法等の科目を担当。

外国人の日本語を「公正に評価する」とは?

日本語教師としての気付き

留学生と日本の学生の両者と接する中で、私自身が「獲得した力」とは、「日本語非母語話者の使う日本語」について、公正に評価する力です。

これだけ聞いても多くの方は、「なんのこと?」「よくわからない・・・」と思っていらっしゃるでしょう。つまりこういうことです。
たとえ留学生の日本語に不自然さがあったとしても、その話の内容について、言葉の問題を超えたところでしっかりと評価できるようになった、ということなのです。

既にそうした評価ができている人からすると「何をいまさら」と言われるようなことでもあるでしょうし、また、「その意識自体が失格!」と批判されることに当たることかもしれません。
しかし、私自身のことについて正直に申し上げます。日本語教師として突っ走ることに懸命になっていたときには、留学生の書く/話す日本語に、「正しさ」や「自然さ」ばかりを求めていたように思います。評価する際、「正しさ」や「自然さ」を学習者に要求することばかりに意識が向き、内容が二の次になっていたであろうことは、今振り返って考えてみると否めないことです。

書くことだけでなく、話すことにも同じことが言えます。内容よりさきに、発音やイントネーションばかりに注意が向いていたように思うのです。今さらながら反省しております。
実は、多くの日本語母語話者の方も、そのように非母語話者の日本語を評価する状態にいるのではないでしょうか。皆さんは、いかがでしょうか。

「流暢さ」にとらわれない意識

学習者が日本語を学習し始めた年齢、その際の環境、母語以外の言語に日常的にどれだけ接していたか等、さまざまな要因によって、新しい言語への順応度は変わってくるようです。

特に発話に関しては、舌や口周りの筋肉の使い方が言語によって違うためか、新たな言語に対して柔軟に対応ができる人とそうではない人で、流暢さという点において違いが出てしまうようです。ところが、そんな各人の事情はおかまいなしに、流暢さやネイティブに近い発音が、評価の大きな位置をしめてしまってはいないでしょうか。

どうしても母語の影響が強く残ってしまっている学習者はたくさんいます。母語にない発音、母語においては特に区別していないような音声については、彼らにとって外国語である日本語の発音にうまく対応できないことはままあることです。

多くの人は自分の外国語学習を忘れてしまいがちなのですが、例えば日本語母語話者の話す英語が揶揄されることを思い出してください。多くの人が「R」と「L」の区別がつかないということに思いを至らせてみてください。

ネイティブに近づけようと頑張って練習しても、なかなか思うように発音できないという事態は多くの方が体験ずみではないでしょうか。

日本語学習者も同じなんですよね。
想像力を働かせれば当然のことなのに、多くの母語話者はついつい自分たちの経験を忘れてしまいがちなようです。そして、日本語学習者にいわゆる「日本人が話すような日本語」を求めてしまう・・・・。その結果、日本語非母語話者の日本語について、安易に評価を下してしまってはいないでしょうか。

コミュニケーションには、違う視点も必要

外国語を学習する際、多く人はその言語の母語話者を手本として考え、何とかその発音に近づけようと頑張るのではないかと思います。学習する側からすると、目標とする言語のネイティブスピーカーのように話したいというのは、特に不自然なことではありません。コミュニケーション手段としてその言葉を使う以上、多く人に理解してもらうことが目標でしょうし、そのためにはネイティブのように話せたほうが圧倒的に有利になるからです。道標がないと、なかなか学習が進まないといった側面もありますよね。

教える際にも、そういったネイティブの発音を伝えるのは道理にあっていますし、特に学習者が望むのであれば、当然するべきことだと考えられます。

ただ、母語話者が非母語話者と日本語でコミュニケーションをする際には、違う視点も必要なのではないでしょうか。発音の不自然さから安易に外国人の日本語を過小評価し、話の内容、ひいてはその人自身の能力を公正に評価していないということに、心当たりはありませんか。

「外国人の使う日本語」に慣れよう

私は、仕事の関係上、様々な外国の人との接点をもっています。なかには流暢さで日本語母語話者にひけをとらない人もいます。しかし、極めて優秀で話しの内容も深く濃く、論理的な話の組み立てができる人でも、流暢さという点でいうとネイティブのようではない人もいます。

そういった人たちが一般の日本の人たちと接触したとき、どのような評価が下されるのでしょうか。実際にいっしょに仕事をしたり、同じ目標に向かって取り組みをしたりしてみれば、その人がいかに優秀かはすぐにわかります。しかし、少し言葉を交わしただけでは、「外国人の使う日本語」に慣れていない多くの日本の人たちは、「この人の日本語は聞きにくい。あまり上手ではない。」と判断し、その話の内容や、その人自身の能力をしっかりと見るところに至らないのではないでしょうか。私はこうした状況を、非常に危惧しているのです。

日本は今後、より多くの外国の人を受け入れ、ともに社会を作っていく状況にあります。そうしたとき、受け入れ側の姿勢として、「外国人の使う日本語」に慣れ、多様な日本語を受け入れていく必要があるでしょう。公正な耳、寛容な耳をもつことが求められる時代になっているのです。

「バラエティーのある日本語」を受けいれる

以前、ある日本の大学院で日本語を教えていた時の話です。そのコースの公用語は英語であったため、日本語が全くできない学生もいました。そのため、私も英語を使って説明をすることがあったのですが、多国籍の学生たちの話す英語は、それこそバラエティー豊かで、聴き取りにくい場合が多々ありました。

「ああ、困った!困った!」

学生の質問が聴き取れないことがあるわけです。・・・しかし、周囲の教員たちを見てみると、私には聴き取れない英語を受け取り、きちんと答えているのです。

また、学生には英語ネイティブの人もノンネイティブの人もいましたが、みんなコミュニケーションをとっています。「標準的な発音ではないから聴き取れない」と留まってしまっていては、そこにひとり取り残されるだけです。

それぞれの母語の影響を受けた英語が現実に存在しているわけですし、それをお互いに認めあいながらコミュニケーションをとり、人間関係が作られているのです。

そこで私が学んだことーーー「現実に現れた言語を受けいれること」。

これは日本語にも当てはめることができます。コロナ禍により一時的に海外との往来が停滞していますが、長い目で見れば多様な背景をもつ人々は日本社会に増えていくでしょう。そうしたときに受け入れ社会側の人間として、或いは、ともに社会を担っていく存在として、「バラエティーのある日本語」を受け入れることも必要になってくるのだと考えられます。

皆さんも、多様な背景を持つ人たちとの共通言語としての日本語について、寛容な心で受けとめることを考えてみてください。

最後に

今回は、日本語教師が見失いがちな「公正に評価する視点」についてご紹介いただきました。

言葉の流暢さやネイティブに近い発話も、もちろん大切ですが、その先にある内容や人物をしっかりと見極める姿勢が大切であると、改めて気付かされました。

こうした多様性を受け入れることは日本語教師だけでなく、日本人すべてに必要な視点なのではないでしょうか。