目次
[ 非表示 ][ open ]
  1. 1. 笈川幸司氏プロフィール
  2. 1. 1.日本語教師という職業の中にあった「出会い」
  3. 1. ~清華大学への道~
  4. 2. ~スーパーマン「駒澤千鶴」先生~
  5. 2. 2.授業の幅を広げ、新たなステップへ
  6. 3. 3.恩師との出会いと日本語学習サークル
  7. 4. 4.出会いから生まれた私の活動
  8. 1. ~本の出版と雑誌連載~
  9. 2. ~日本での活動~

2021年5月15日、日本語教師養成講座の受講を検討されている方に向けたオンラインセミナー「中国の日本語教育事情~20年の教師としてのキャリアとコロナ禍の現状~」が開催されました。お招きしたのは、中国で日本語教師としてご活躍されている笈川幸司氏です。笈川氏は日本語教師としてのこれまでの経験や活動を、そこにあった素晴らしい出会いと共に紹介して下さいました。今回はその内容を中国編と世界編で、ご紹介していきます。

笈川幸司氏プロフィール

自己紹介

海外旅行好きだった私は、ある時中国へ留学。現地で沢山の中国の方の優しさに触れたことが、日本語教師としての私の原点となりました。留学後は一旦帰国し、国会議員の公設秘書や漫才芸人を経験しましたが、その時々に成功や失敗を繰り返しながら学んだことが、今では教壇に立つ上で大きく役立っています。沢山の人々との出会いは、「全ての出会いに意味があること」を私に教えてくれました。

そこで今回は、日本語教師を目指す全ての人に、私のそんな出会いの数々を交えながら、日本語教師として私が歩んできたこれまでの道のりとその活動をご紹介しようと思います。

1.日本語教師という職業の中にあった「出会い」

私は1994年に留学後、一旦帰国したものの2001年には再び中国へ渡り、現地の専門学校のような所で日本語教師として働いていました。

中国で日本語教師になって2カ月が経った頃のことです。ある出会いが訪れ、私はその後20年間、日本語教師の道をまっすぐ歩むことになりました。

~清華大学への道~

当時、私はおじいさんの紹介を受け早速、清華大学へ見学に行くことに。日本ではありえない出来事ですが、なんと私は見学後に呼び出され、面接を受けてそのまま清華大学に採用されることになりました。

後日、話を聞いてみると、おじいさんは清華大学の外国語学院に影響力のある友人がいて、その方に私を推薦してくれたようで、面接前から採用を決めてくれていたそうです。今思えばこのおじいさんが私を新たな出会いへ導いてくれるキーパーソンでした。

~スーパーマン「駒澤千鶴」先生~

こうして偶然の出会いを経て清華大学で働くことになった私は、新たな出会いを重ね、一人のスーパーマンに出会いました。その方は、駒澤千鶴先生です。

駒澤先生の授業はまるで一つのテレビ番組を見ているかのようで、教室全体が盛り上がる活発なものでした。特に学生の積極的な発言がとても印象的で、授業が一つの芸術として成り立っているような感覚です。私はこの素晴らしい授業のプロデュースから主演まで、全てを一人で行う駒澤先生を見て刺激を受け、本格的に日本語教師として学びたいと思いました。

それからというもの、私は空き時間の全てを駒澤先生の授業見学に費やし、学ぶことに。そして駒澤先生は毎晩夜食を食べながら、駆け出しの私に日本語教師の資質とは何かを一つ一つ丁寧に教えて下さいました。

その中で私自身が見つけた、ある課題があります。それは授業をするだけで学生の心を掴み、信頼を一気に得ることができるという、駒澤先生そのものの日本語教師像です。私にはなかなか難しい課題でした。

この課題をクリアするために私が見出した答えは、得意な「スピーチ指導」を磨くこと。

中国ではスピーチ大会で優秀な成績を修める大学が2つあります。北京外国語大学と北京第二外国語大学です。まずはそのレベルを知るべく、私はそこの学生を呼んでスピーチを行い、それをお手本に練習を重ねました。また、学生との信頼関係を深めるために、学生と一緒にジョギングをしたことも。

駒澤先生の教えを受け、学生たちと二人三脚で学んだ経験は、私に日本語教師の面白さを教えてくれました。

2.授業の幅を広げ、新たなステップへ

スピーチにおける発音指導に自信が付いた頃のことです。当時、東京外国語大学の日本語音声学の権威であった鮎澤教授と連絡を取る機会があり、私が東京へ帰国した際に直接、私の授業ビデオを見て頂くことになりました。鮎澤教授はビデオを見て「あら、いいわね。あなた、音声学もアクセントのルールも知らないでしょう?教えてあげるわ。」と言って下さり、私はこの機会に日本語の音声学とアクセントについて学生と共に一から学ぶことになったのです。私が中国へ戻った後、鮎澤教授は早速、私と生徒が使うテキストを毎月送って下さり、半年間ほど勉強しました。

また鮎澤教授は退官後、秋田の国際教養大学の教授として勤められていましたが、その時にもお付き合いがあり、台湾学生の授業を担当させて頂いたり、その学生たちの発表会サポートをさせて頂いたりと経験を積む機会も下さいました。鮎澤教授の日本語の教え方やその姿勢を学ぶ良い機会になったと思います。

そして私は、学生にスピーチとプレゼンテーションを徹底的に指導していくことになりました。

日本語教師として指導の幅が広がったのです。

3.恩師との出会いと日本語学習サークル

次に日本語教師としてある程度経験を積んだ頃のお話です。北京大学や清華大学の学生が中心となり100名ほどの学生が集まった日本語学習サークル「こだま」が月に一回、コンクールを開いていました。

2006年、私はこだまに所属している学生と一緒にある先生へお手紙を書き、北京へお招きすることに。お招きしたのは世界日本語作文コンクールを毎年開催している、大森和夫・弘子先生です。

大森先生は元々中国の日本語作文コンクールを30年間に渡り開催していた方でした。大森先生が育てた教え子は各大学の学部長になるなど、中国では有名です。

お招きした際には、北京で全国日本語スピーチコンテストを開催して下さいました。

そしてお付き合いが始まりましたが、大森和夫・弘子先生はいつもクールで格好良く、私の背中を押してくれる存在でした。大森和夫・弘子先生は私の日本語教師としての人生になくてはならない方です。

4.出会いから生まれた私の活動

~本の出版と雑誌連載~

北京での全国日本語スピーチコンテスト開催から2年後。私は変わらず、「こだま」をサポートしていました。その中で次第に私自身も舞台に出てスピーチをするようになった頃のことです。ある出版社の社長が「雑誌で連載したり、本を出してみませんか?」と声を掛けて下さいました。

その機会に私は連載を経て、本を出版することに。その本の販売に伴い、講演会活動も開始しました。ありがたいことに本はベストセラー賞を頂き、雑誌にも10年間毎月連載させて頂いたのですが、今考えるとそれは、これまでの出会いがあったからこそ。そもそも日本語教師としての資質を教わらなければこの道を極めることもなかったし、指導の分野を広げて、コンクールが開催されなければ、本を出版することもありませんでした。

~日本での活動~

そして、2011年。私はさらに活動の幅を広げ、全国各地を周る日本語講演マラソンを開始しました。この活動を始める前、私の勤める清華大学や北京大学に日本の新聞社の方やTV局の方が留学生として来ていて、私の授業を見学してもらう機会があったのですが、そういった方々が帰国後、私の活動を応援してくれたのです。私が独自に作り上げた、中国語の発音を活かしながら日本語を指導していく「笈川楽譜」や私の中国での活動をメディアで取り上げて下さったおかげで、学術誌やシンポジウムの域を飛び出て、より多くの人々に私の日本語講演マラソンという活動を知ってもらうことができました。

私は20年前、お笑い芸人を辞めて中国へ渡った時、覚悟を持って日本への未練を捨てました。そのため、日本の友人とはしばらく連絡を取っていませんでしたが、メディアの方々のおかげで友人とも再会することができ、「出会い」の尊さを実感しました。

この後、活動は世界へと広がっていきます。

 

後編はこちらから>>

 


ライター:柴山 梓