2021年5月10日、日本経済新聞朝刊に、外国籍の子の日本語教育に関する記事が掲載されました。経済新聞のトップ記事として取り上げられたことは、ようやく日本社会が外国籍の子の日本語教育に関心を示すようになってきたことのひとつの現れだと言えるでしょう。
子どもの日本語教育については、制度や法律等の構造的な問題、日本語教育と教科学習との融合、教育にあたる人材の育成、周囲の人々の理解等、さまざまな問題を含んでいます。今回は、子どもに関わる大人の責任として、是非知っておいていただきたいことをお伝えします。
文:志賀玲子講師
「外国につながりのある子どもたち」にかかわる大人たちの責任
児童・生徒と留学生との違い
留学生への日本語教育と、児童・生徒への日本語教育・・・両者の違いはなんでしょうか。もちろん、日本語の教育にかかわることですから共通点があるのは当然です。しかし、忘れてはならない大きな違いもあります。
注意すべき大きな違いの一つは、留学生は自分の意志で来日するのに対して、児童・生徒たちはそうではない場合がほとんどだということです。この点については盲点になっていることも多く、注意が払われていないことも多いようです。しかし、この違いはしっかりと認識する必要があるでしょう。そもそもなぜ日本に来たか、という点です。基本的に、留学生は自分自身の人生選択をした上で自分の意志により日本への留学を果たしているのに対して、多くの児童・生徒たちは、親の都合により国境をまたいでいることになります。年齢によっては、自分が置かれた状況がつかめないこともあるでしょう。来日に抵抗を示す子もいるでしょうし、逆に、何か新しいところに行くということでワクワクしながら来日する子もいるかもしれません。また、来日直後に大きな問題はなかったとしても、環境になじめず不安定な心理状況に陥る子どもたちもいるでしょう。もちろん、長い目で見れば、その体験は子どもたちにとってプラスに働く可能性もあります。むしろ、プラスになるように、周囲の大人たちも、そして子どもたち自身も、前向きにとらえることは大切です。しかし、それは大人の勝手な言い分かもしれません。子どもたちは大人の犠牲者だという側面もあるのです。
子どもが置かれた状況
中学生の支援をしていたときの話です。ある時、向かい合って勉強していた子が、いつの間にか私の隣に座り、体をピタッと摺り寄せてきました。周りの子たちと比較すると大人っぽいその子は、少し斜に構えていて、学校や大人たちを冷めた目で見ているようでした。・・・少しいきがっているような感じです。皆に見せているその言動とは相いれない、小さい子どものように甘える態度に、私は内心驚きました。初めは、「パーソナルスペースが狭い子なのかな?」「たまたま話の流れで肌がふれたのかな?」と思っていたのですが、そうではないということが、だんだん明らかになってきました。いつも私の隣に座るとベターっと腕によりかかってくるのです。意識的か無意識かはわかりませんが、スキンシップを求めていることは確かでした。
これが何を意味するか・・・その生徒自身に改めて問うたわけではありませんし、家庭環境について事細かに質問したわけでもありません。しかし、どうやら「日本の家」がその子にとって居心地のよい場ではないということが伝わってきました。親が日本人と再婚したことにより呼び寄せられたのだそうですが、その子自身は「日本などへは来たくなかった」と・・・。「はやく母国に帰りたい」「今の家は本当の私の家じゃない」とつぶやきました。
学齢期にある子どもたち
先ほど、留学生は自分の意志で日本に来ると言いましたが、中には、親や教師に勧められ嫌々留学する人もいます。また、制限があるとはいえアルバイトができる留学先として、他に選択の余地がなく日本が選ばれる場合もあります。しかし、彼らの多くは初等教育と中等教育を終えて来日するため、社会で生きていくための基本的な知識は既に獲得しています。そして、来日して日本語学校等で日本語を学習する際には、日本語学習に集中することができます。
しかし、子どもたちはそうではありません。日本の小学校、中学校に入ってきた子どもたちは、日本語の学習をするために学校へ通うわけではないのです。日本語はあくまでも学業のために必要な手段であり、一刻もはやく教科学習に入らなければならないのです。日本語学習に1~2年ほどは専心できる留学生と、教科について学ぶべき学齢期にいる子どもたちとでは、そこが大きく違います。
文部科学省のホームページには、「外国人の子どもの公立義務教育諸学校への受入について」ということで「公立の義務教育諸学校へ就学を希望する場合には、国際人権規約等も踏まえ、日本人児童生徒と同様に無償で受入れ」、「教科書の無償配布及び就学援助を含め、日本人と同一の教育を受ける機会を保障」すること等が書かれています。
(https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/042/houkoku/08070301/009/005.htm)
「日本人と同一の教育を受ける機会を保障」ということが謳われていますが、日本の多くの公立学校での教育は日本語でなされるわけなので、そこで教育を受けるには日本語の理解が必要となってきます。教科と結びついた日本語学習が必要だ、と強く言われているゆえんです。
将来を見据えた支援
また、子どもは、身体的にも精神的にも、そして認知的にも、成長の真っただ中にあるということを忘れてはいけません。小学校1年生と6年生を比べて考えていただくとおわかりだと思いますが、6年間で大きな変容をとげますよね。そして思春期を迎えた中学生は、それぞれ悩みも複雑化し難しい問題を抱えるようになります。今、小学校1年生、6年生、中学生と一括りに表現してしまいましたが、個人によりその置かれた状況はさまざまであるということは、ちょっと想像すればおわかりになるでしょう。日本の子どもたちも同じですが、成長の仕方はその子によってさまざまです。しかも、移動が多い子どもたちは、その移動の径路も多様ですし、移動した際の年齢、母語の習得状況、母語での教科学習状況等、母語にかかわる経験もまちまちなわけです。日本に来てからの生活に関しても、子どもたちが安心して暮らせる環境が整えられているか否かを含め、それぞれの子どもが置かれた環境はさまざまで、抱える問題はそれぞれ異なります。
子どもたちの支援をする際、子どもが成長過程にあること、成長の道筋は子どもにより異なること、そして、子どものおかれた環境もひとことでは言い表すことができないほど多様であることを、周囲の大人たちはしっかりと認識する必要があります。子どもたちの人生を長いスパンで眺めることは、子どもたちの支援に関わる際に非常に大切な視点です。
大人の責任
さて、日本語がうまく話せない子どもの教育を「支援学級」に安易に任せてしまうということが度々報告されます。子どもたちの認知的な発達具合と、日本語の習熟度を混同して考えてしまい、その子に合った教育が受けられないのは人権問題と言ってもよいでしょう。支援学級での教育がその子に適したものであるならば、それはひとつの素晴らしい選択と言えます。しかしそうではない場合、どうでしょうか。本来そこで教育を受けるべき子どもにも少なからず影響を与えてしまいますし、入るべきではなかった子どもにとっては適した教育が受けられないということになり、何ら良い結果とはなりません。
また、外国につながりのある中学生のうち、日本語の習熟が十分ではない子たちは、高校進学で苦労することになります。そうした子どもたちの高校進学については、配慮がなされ制度が整っている地域と配慮と言えるような制度がない地域があります。子どもたちには潜在能力があります。その時点で日本語能力が不足しているというだけで、実際には大きな可能性を秘めているのです。子どもたちが従来持っている力を過小評価してしまい、「伸び」を信じてあげられない状況もよく見られます。周囲の大人たちが勝手に子どもの限界をつくってしまうという、とても悲しい事態も様々な現場で起きていることです。
子どもの人生を長い目で見てあげてください。将来に希望をもつよう、語ってあげてください。自分の「狭い視野」により子どもの将来が狭められていないか、自分自身に問いかけることも大切な姿勢かもしれません。子どもたちの支援にかかわりつつ、自分自身を省みることも、子どもたちの人生に関わる立場としての責任ではないでしょうか。