目次
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  1. 1. 次の漢字の読み方、わかりますか?
  2. 1. ①の漢字の読み方
  3. 2. 常用漢字について
  4. 2. ZARD 歌詞へのこだわり
  5. 1. ②の答えがもつ想い

次の漢字の読み方、わかりますか?

いきなりですが、質問です。

次の漢字の読み方、わかりますか?

① 彷徨く  狼狽える  躊躇う  蔓延る  戦慄く

んん? なんだ?

では、次の漢字はどうでしょうか?

② 時間  季節  月日  国境  運命  時期  時計  状況  生活

簡単? 確かに普通に読むのだとしたら大した問題なく読めるものばかりですね。

でも実はこれ、ちょっとひねった問題なのです。

今回は表記と読み方から言葉について考えてみましょう。


文:志賀玲子 講師

夫の赴任地からの帰国をきっかけに専業主婦から日本語教師に。
都内日本語学校にて数年間勤務後、大学院へ進学。大学院修了後、日本語教師養成講座講師、大学勤講

師に。
現在、大学にて留学生教育の他、日本の学生への初年次教育及び日本語教授法等の科目を担当。


①の漢字の読み方

では、①から話を進めましょう。

彷徨(うろつ)く     狼狽(うろた)える     躊躇(ためら)う

蔓延(はびこ)る    戦慄(わなな)く」

2022年4月4日の日本経済新聞の「春秋」では、漢字学者の阿辻哲次氏が上記のような表記について嘆いていることが書かれています。こうした表記は、パソコンやスマホなどで平仮名を入力すると、変換候補として示されます。記事には、手書きのころにはこのような漢字表記は見られなかったと書いてあります。確かにそうですよね。多くの人は、手書きの時代には、「うろつく」「うろたえる」などと平仮名で表記していたのではないでしょうか。それが、日常的にスマホやパソコンなどの機器を使うようになった現在、その変換機能によっていとも簡単に漢字を使っているというわけです。

上記の話題のもととなった、2022年3月26日の日本経済新聞に載った阿辻氏の文章を少し紹介します。現代では多くの人が電子機器を使って気楽に文章を書くようになったことについて、阿辻氏は、そのこと自体は素晴らしいことだと認めています。しかし、機械から生み出される日本語の中には首をかしげたくなる表記があって、それが日本語の表記に定着することを恐れていると述べているのです。

阿辻氏は「文章は機械ではなく自分で書くものだ」と私たちに伝えているようです。安易に漢字を使うな、ということでしょうか。

阿辻氏は、平仮名で書く和語と漢字で書く漢語は、同義語であっても使う場面が違い、明確に使い分けがあるのだと言います。和語と漢語を使い分ける感性が大切で、安易に平仮名を漢字に変えるべきではないとの主張です。

実は、大学生の間でも「流石に」という表記が増えてきたことが私も気になっていました。パソコンで書くときはまだしも、手書きの際にも漢字表記「流石に」と使う学生が散見されるようになったことに、少々驚いています。これなどは、上記①の例とは違って、「流」や「石」など、書きなれた漢字の組合せですし、手書きでも書きやすいということなのでしょう。

常用漢字について

ところで、「常用漢字」というのを聞いたことがありますか。

私たちが学校で習う漢字は、内閣が告示している「常用漢字表」に載っている漢字です。2010年に改訂され、現在では2136字の漢字が示されています。

漢字というのは数限りなくあり、覚えると言ってもきりがありません。また、人によって覚えている字、使う字が違っていたら、コミュニケーション上も支障が出てしまいます。そのため、近代化を進める過程で、社会生活をスムーズに営むために、使う漢字を絞る方向に議論が進みました。

そこで、1946(昭和21)年に「当用漢字表」というものが出されたのです。その後1981(昭和56)年に示されたのが「常用漢字表」です。両者の違いについて書くと話がそれてしまうので、ここではこれ以上詳しく書くのは控えます。

大まかに言ってしまうと、こうした表を示すことによって、皆が日常的に使う漢字を認識しましょう、というものです。「常用漢字表」は「一般の社会生活において、現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安を示すもの」とされています。

歴史的な流れで見ると、日本は、漢字習得の負担を減らす方向に動いていました。ところが、電子情報機器の普及により、この流れが変わった現象が見られるのが現在の状況で、阿辻氏はそれを指摘しているのです。

私も、相手が読めない、或いは、読みづらいような表記を、機器で変換できるからと言って安易に使うことには気をつけなければならないと思っています。文字でのやりとりも、コミュニケーションなのですから・・・・。

ZARD 歌詞へのこだわり

さてさて、話がガラッと変わりますが、これを読んでくださっている方の中には、ZARDのファンだった方もいるのではないでしょうか。

ファンだったではなく、ファンですね!

ZARD坂井泉水さんは、ZARDの楽曲のほとんどを作詞していますが、言葉にとてもこだわっていたことが知られています。

そんなZARD坂井泉水さんの詞に魅かれている人は多いのですが、三重県で小学校の先生をしている 平山剛さんという方は、大学の卒業論文でZARDの研究をしたそうです。「ZARD坂井泉水の歌詞における表現特性」という題名です(NHKより)。


「探しに行こうよ」

探しに行こうよ 国境を越えて もう二度と迷わないから


さて歌詞の中の「国境」・・・何と読みますか?

実は、この詞の中で坂井さんは、「国境」を「とき」と読ませているのです。

国境という言葉の中にいろいろな意味や思いを入れて言葉を紡いでいるというのが、平山氏の解釈です。

自分の思いを言葉に託すために、音声と漢字の組合せを考えた結果の表記であり、両者の相乗効果でその思いをさらに強く伝えているとも言えますね。

表記や音声を含め、言葉を深く考え紡いでいるということになります。

②の答えがもつ想い

国境と書いて「とき」と読む――これが、冒頭の質問②の答えにつながります。

②に挙げた言葉はすべて、ZARDの歌詞の中で「とき」と読んでいるものなのです。

・・・深いですよね。

音楽ライター伊藤博伸さんは、1990年代の音楽でZARDが受け入れられた理由を語っていますが、「心に寄り添っている歌」というのをキーワードとして挙げています。

人の心の奥深くに入り込んでいく歌詞が生まれるときに、文字や音声を伴った言葉がより強い働きを担っていきます。

さらに、どんな漢字を使うかということだけでなく、あえて漢字を使わないという選択もあり得ます。


「揺れる想い」

揺れる想い体じゅう感じて


これもZARDの楽曲ですが、「揺れる想い」という曲の中で、ZARD坂井泉水さんは、「体中」ではなく「体じゅう」と平仮名表記にすることにこだわったとのことです。体の中だけではなく、中も外もすべて、という気持ちを込めたかったということのようです。

言葉を表すのに表記が大きな力をもつことが、ZARDの歌詞の例からもわかります。詩や歌詞を書いたり、小説を書いたりするときには、元来深い力をもつ表記に、その人ならではの思いがのせられるのでしょう。

一方、日常的なやりとりをする際に、相手が読めない字を安易に使ってしまうことの弊害もありそうです。

文章を書くとき、意図や目的に合わせ、また読む相手を慮りながら表記を選んでいく姿勢は、機器が身近にある現在、目指すべきものなのではないでしょうか。何のための文章で、何のための言葉なのかを意識すると、表記方法が変わってきそうです。

相手に「伝わる」ことが言葉のもつ大きな意義なのですから・・・・。

〈参考〉

日本経済新聞2022年4月4日「春秋」

日本経済新聞2022年3月26日「文化」 阿辻哲次『「ためらう」と「躊躇う」』

NHK『ZARDよ永遠なれ 坂井泉水の歌はこう生まれた』