日本語ネイティブと変わらないような日本語の使い手である外国出身の友人がいます。黙っていれば、ほとんどの人はその人が非母語話者であることに気づきません。高校時代から日本語を勉強したとのことですが、とても自然にかつ流暢に話します。
そんな友人との会話・・・・
私「〇〇さん、相変わらず忙しそうですね~」
友人「先週は忙しいでしたね~。でも、今週はそうでもない。結構暇です。今日も仕事は早く終わりました。」
そうだった、そうだった・・・・「忙しいでした」。
この友人、形容詞の過去形に関してだけは、「規範的ではない」使い方をしているのです。
その他の部分があまりにも流暢なので、形容詞の過去形が出てくるたびに、未だに違和感を覚えてしまいます。おそらくその友人は、完全に「~でした」の形で覚えているのでしょう。「化石化」という現象でしょうか。「定着化」とも呼ばれます。
今回は、この友人の「忙しいでした」を出発点として、いくつかの視点から「間違い」というものについて考えてみようと思います。
文:志賀玲子 講師
夫の赴任地からの帰国をきっかけに専業主婦から日本語教師に。
都内日本語学校にて数年間勤務後、大学院へ進学。大学院修了後、日本語教師養成講座講師、大学非常勤講師に。
現在、大学にて留学生教育の他、日本の学生への初年次教育及び日本語教授法等の科目を担当。
「間違い」には種類がある?整理して考えてみましょう
言い間違いの「ミステイク」と間違って認識している「エラー」
まず、「間違い」の種類について考えてみましょう。
「間違い」について観察する視点に「ミステイク」と「エラー」という二つの種類に分けて考えるというものがあります。単なる言い間違いと、そうではない間違いです。単なる言い間違いであるミステイクは、母語話者にもよく見られる現象ですね。これはその場ですぐに訂正されることがほとんどです。皆さんもちょっとした言い間違いを、よくしていませんか。むしろ、日常会話の中で言い直しせずに会話をしていることのほうが珍しいかもしれません。
上でご紹介した私の友人の場合、ちょくちょく同じような間違いが発せられ、本人が訂正することもないので「エラー」だと思われます。単なる言い間違いではなく、完全にその形で覚えてしまっている可能性が高いようです。
それでは次に、この「間違い」というものはあってはならないものか否かについて考えてみましょう。
コミュニケーションの視点から考えた場合
規範文法に照らし合わせると「間違い」であると判定されるため、あってはならないものだと多くの人は思うかもしれません。なぜそんなことをわざわざ尋ねるのか、不思議に思っている方もいるでしょう。しかし、言葉をコミュニケーションの手段だという視点で捉えるとどうでしょうか。ミスコミュニケーションが起きてしまうような間違いでなければ、そんなに目くじらをたてる必要はないとも言えるのではないでしょうか。
コミュニケーションの成立という視点から捉える場合、さらに先ほどのエラーを「グローバルエラー」と「ローカルエラー」という2種類に分けて考えることがあります。
グローバルエラーとはミスコミュニケーションにつながるエラーで、ローカルエラーはコミュニケーションの上では問題のないエラーのことです。
さて、エラーについてはさまざまな議論があります。特に間違いを訂正することについては、日本語教育を実施するに際して、多くの教師が常に悩んでいる課題だと言えます。「どうやって訂正しようか?」「間違いすべてを訂正するべきだろうか?」など、悩みは尽きません。
「グローバルエラーであろうが、ローカルエラーであろうが、しっかり訂正すべきだ」
「コミュケーション上問題がないようなエラーであれば、特に訂正する必要はない」
つまるところ、その人が日本語を使う目的や、その人に対してどのような日本語が求められているか、そして皆さんとその人との関係性によって変わるとしか言いようがありません。一言で片づけられる問題ではありません・・・。
だから、あってはならないものか否かも、その人によるとしか言えないのです。
文法を紐解くと、実は日本語のほうに矛盾がある?
では次に、この間違いがどのように発生したのかについて考えてみましょう。
ちょっと文法的な話になりますが、文というものについて考えてみたいと思います。
さて、「述語」になるのはどんな「品詞」でしょうか。文法用語が出てきて少々かたくなってしまいますが、文の述語になるのは、動詞、名詞、形容動詞(な形容詞)、形容詞(い形容詞)なんですね。
(「な形容詞」「い形容詞」というのは、日本語教育でよく使う名称です。それぞれ「形容動詞」「形容詞」のことを表しています。)
例を挙げましょう。述語は下線部のところです。
<動詞文>
Aさんは学校へ行きます。<名詞文>
Bさんは学生です。<形容動詞文>
Cさんは元気です。<形容詞文>
Dさんは優しいです。
では、それぞれの文を「過去」の形にしてみてください。
<動詞文>
Aさんは学校へ行きました。<名詞文>
Bさんは学生でした。<形容動詞文>
Cさんは元気でした。
ここまで見てみると、「す」を「した」にすることによって過去の形にしていることがわかります。
この規則を形容詞にあてはめると・・・?
<形容動詞文>
Dさんは優しいでした。?
動詞や名詞や形容動詞のルールを形容詞にも当てはめると、「優しいでした」が正しいということになります。ところが、当然のことながら実際には違っていますよね。正しくはこちらになります。
<形容動詞文>
Dさんは優しかったです。
私たちは「優しかった」というように、「優しい」を活用させることによって過去を表し、さらに、「です」をつけて表現しているのです。皆さん、これについてどう思われますか。
学習者から見ると「した」にすれば過去になる、と考えがちです。ところが、形容詞だけはそうなってはいない・・・・日本語の矛盾?
この現象を見る限り、先ほど紹介した私の友人の「忙しいでした」という表現は、ある意味、とても論理的な間違いであるとも言えます。皆さん、そうは思いませんか。日本語のほうに矛盾があるとも言えるのですよね。
子どもが日本語を学んでいく過程に気付くこと
このように、日本語の間違いとして処理されている現象は、その原因を探っていくと「もっともな間違い」「論理的な間違い」に行きつくことがあります。ちょっと視点を変えると、学習者の間違いを頭ごなしに間違いであると指摘することはできなくなりますよね・・・・。
学習者の「間違い」に視点をあてると、日本語がもつ特徴、場合によっては日本語の非論理性が浮き出てくることがあります。とても興味深い情報を提供してくれているのです。
姪っ子が小さい時の話です。
「〇〇ちゃん、これ知ってる?」
「ううん、知ってない!」
姪っ子のこの返答を聞いて、母語話者の子どもの中にルールが作られていく過程を観察することができました。学習者がおかす間違いと似た現象です。
「今、テレビ見てる?」
「ううん、見てない」
現在進行していることを表す場合、一般的にその否定形は「~ていない」で表しますよね。「~て(い)る - ~て(い)ない」をルールとしてとらえると、「知らない」と答えるべきところ「知っていない」と口にするのは、論理的な思考がもたらした現象だと言えます。姪っ子は、彼女なりの日本語のルールを作り上げていたのだと考えられます。
ちなみに、今では「知っていない」とは言いません・・・・。学んでいくんですね。
日本語教育の現場では、このような特殊な現象について注意しながら伝えていきます。
最後に
いかがでしょうか。間違いを単に「間違い」と処理するのではなく、その間違いの種類や背景にある理由などを探っていくと、いろいろな考察ができ、興味深い発見につながるかもしれません。
ぜひ皆さんもアンテナをはって、言葉の使い方について考えてみてください。